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編年史の数々

「昭和編年史」は昭和の重大な社会事件を、広く全国紙・地方紙にあたり、

経過を追って地元の反応まで含めて掲載しています。

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核実験と放射能

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 昭和29年(1954年)3月の米国によるビキニ核実験で、第五福竜丸などの遠洋漁船が被災。

捕獲した汚染マグロは廃棄され、市民にマグロ恐怖が広がった。その後も米ソ冷戦下で核実験競争はますます激化し被害も深刻さを増していく。

 

 「昭和編年史31年版 Ⅲ」P.550〈6.21 中国〉は、ビキニ水爆実験で放射能にさらされたマーシャル群島住民の深刻な被害の記事。

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 「昭和編年史31年版 Ⅲ」P.565〈6.22 朝日〉は、度重なる核実験の影響で日本に強い放射能雨が降っているという記事。

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 「昭和編年史34年版 Ⅴ」P.481〈10.17 朝日〉は、牛乳にストロンチウム90が検出されたという記事。

 米ソの核実験(地上)による放射能汚染は続いている。

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 昭和36年(1961年)10月30日、ソ連が北極海ノバヤゼムリヤ島で50メガトンの超大型地上核実験を行う。広島・長崎原爆の2,500倍で史上最大の水爆実験。その前にも10月23日に30メガトン級の地上核実験を行っている。

 記事は「昭和編年史36年版 Ⅴ」P. 629〈10.31 朝日新聞〉

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 ソ連の核実験の後、日本各地で降雨から放射能が検出された。大気中のチリからの放射能も増加した。

 気象庁気象研究所の三宅泰雄・猿橋勝子両博士らが、昭和36年(1961年)10月23日にソ連が実施した 30メガトン級核実験は在来型と同様「死の灰」を成層圏に拡散した、と発表。

 記事は「昭和編年史36年版 Ⅵ」P.91〈11.8 朝日新聞〉

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 昭和36年(1961年)11月8日の三宅泰雄・猿橋勝子両博士ら気象庁気象研究所の「死の灰」発表に内閣放射能対策本部が怒る。

 放射能測定や評価は対策本部が一本化して発表することに決定していたが気象研がこの取決めを破って研究結果を発表したため。

 三宅理博は「学者の研究を言論統制式に押えるのは反対だ。今後も学者の良心にてらしてデータを発表する」と反論。

 記事は「昭和編年史36年版 Ⅵ」P.104〈11.9 朝日新聞〉

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 昭和36年のソ連地上核実験再開に対抗し、翌昭和37年(1962年)4月25日(日本時間4月26日)、アメリカが太平洋上で核実験を再開。クリスマス島周辺で爆発は中程度。

 記事は「昭和編年史37年版 Ⅱ」P.557〈4.26 朝日新聞〉

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 アメリカが太平洋上で核実験を再開したことは日本中に失望と怒りを呼び起こし、多くの団体で抗議声明や抗議デモが行われた。

 前田多門元文相、茅誠司東大総長らの「世界平和アピール七人委員会」、日本学術会議などが実験へ抗議声明を出し、静岡県焼津や高知県室戸などのカツオ・マグロ漁業基地は放射能被害防止に厳重注意を出漁船に呼びかけた。

 又、全学連主流派は米大使館に向けて抗議デモ行進を行った。記事は「昭和編年史37年版Ⅱ」P.573〈4.26 朝日新聞〉

英国コールダーホール原子炉導入

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 平成23年(2011年)3月の福島原発事故以来、日本の原子力行政のあり方が検証されているが、「昭和編年史」で戦後の原子力産業の推移を見ることができる。

 1960年代、高度経済成長に伴い電力需要が高まり政府は原子力発電を推進、商業用原子炉として英国のコールダーホール型発電炉を輸入することになった。

 

 「昭和編年史34年版 Ⅴ」P.39〈9.4 日本経済〉、P.447〈10.14 朝日〉は、コールダーホール型原子炉導入問題の記事。

 

 英国原子力公社原子炉安全部F・R・ファーマー氏の論文では、東海村は原子炉設置基準に満たないとされていた。又当時、「昭和編年史34年版 Ⅵ」P.45〈11.5毎日〉に見られるように、東海村の原子力研究所に隣接する米軍水戸射爆撃場から米軍機が原研上空に飛来しその危険性も指摘されていた。(米軍水戸射爆撃場は、茨城県民の激しい返還運動が起こり昭和48年(1973年)に返還された。)

 昭和34年(1959年)11月、原子力委員会の原子炉安全審査部会が、英コールダーホール改良型発電用原子炉について「安全と認める」と結論。これに対し同部会委員の坂田昌一名大教授が「審査方法と結論内容には自分の意見が反映されず責任が持てない」と辞任を表明(「昭和編年史34年版 Ⅵ」P.175〈11.17 熊本日日〉)。しかし、政界・産業界の強い意向で導入された。

 原子炉は昭和41年(1966年)7月より営業運転開始、日本初の商業用原子炉となった。(平成10年(1998年)に運転停止、現在廃炉作業中)

 

 右端は「昭和編年史34年版 Ⅵ」分野別目次。産業・国土開発の項目で原子力産業関係記事を集めて掲載。

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砂川事件

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 「昭和編年史34年版 Ⅱ」P.317〈3.30 毎日〉は、砂川事件東京地裁判決の記事。

 

 昭和32年(1957年)7月8日、東京調達局が日米安保条約に基づく土地収用法等により、東京都砂川町の米軍基地拡張のため測量を実施した時、反対する労組員・学生らが基地の柵を壊して数メートル入った。東京地検は安保条約の刑事特別法で7人を起訴。

 昭和34年(1959年)年3月30日、記事見出しのように、東京地裁は「米軍駐留は憲法違反」として全員に無罪判決を言渡す。この判決を裁判長の名をとって「伊達判決」と言い、国会で違憲判決、安保条約改定をめぐって与野党の論戦が繰り広げられた。

 憲法9条解釈が法廷で論議された初めての判決である。(参考文献『日本の裁判史を読む事典』自由国民社)

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 左は「昭和編年史34年版 Ⅱ」分野別目次・政治の項目の一部。

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 昭和34年(1959年)3月30日の伊達判決に対し検察側は最高裁に跳躍上告し、同年12月16 日、最高裁(田中耕太郎裁判長)は「駐留米軍は、憲法9条が保持を禁止した戦力ではない。さらに安保条約は高度の政治性を持つものであるから、それについて、裁判所が合憲か否かの司法的判断を加えることは適当でない…」として原判決破棄、東京地裁へ差戻し判決を言い渡した。

 記事は「昭和編年史34年版 Ⅵ」P.470〈12.16 朝日〉

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 最高裁の差戻し判決に基づき東京地裁は再度審理を行い、昭和36年(1961年)3月27日、検察側の主張を認め7被告全員に罰金2,000円の有罪判決(求刑懲役6ヵ月)を言い渡した

 記事は「昭和編年史36年版 Ⅱ」P.266〈3.27 朝日〉)

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 弁護側はこの東京地裁判決を不服として最高裁に再上告したが、昭和38年(1963年)12月7日、最高裁は「上告には理由がない」と上告棄却を決定、被告全員の有罪が確定した。

 事件以来6年ぶり5度目の裁判で幕を閉じた。

 記事は「昭和編年史38年版 Ⅵ」P.569〈12.26 朝日〉

水俣病

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 「昭和編年史34年版 Ⅳ」P.244〈7.23 熊本日日〉は、4大公害病の1つ、水俣病に関する地元紙の記事。熊本大学医学部水俣病研究班が、水俣病の原因物質は有機水銀であると公表したもの。

 

 水俣病は新日本窒素(現チッソ)の廃液による公害病でメチル水銀による中毒性中枢神経疾患。昭和31年(1956年)に「原因不明の奇病」として水俣保健所が公表。原因物質は容易に特定されず、有機水銀説をとる熊本大学や厚生省食品衛生調査会に対し、新日本窒素が反論、化学工業界・学界などを巻きこんで論争が長引き、結果として被害の拡大・補償の増大を招いた。(参考文献『環境史年表』河出書房新社)

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 左は「昭和編年史34年版 Ⅳ」分野別目次。公害・災害・事故の項目で水俣病関係記事を分類して記載。他に水質・大気汚染や放射能汚染などの記事も分類。

松川事件

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 「昭和編年史34年版 Ⅳ」P.415〈8.10 朝日〉は、松川事件公判記事。下山事件、三鷹事件に続く戦後の鉄道事件として全国的に注目される。

 

 昭和22年(1947年)8月17日、東北本線松川駅付近で上り列車が転覆、機関士ら3人死亡3人負傷。国鉄・東芝労組員が首切り反対闘争の共謀犯として逮捕、起訴される。昭和34年(1959年)8月10日、最高裁は17人有罪の仙台高裁の2審判決を破棄、差戻す。検察側の隠していた「諏訪メモ」が、被告人達のアリバイを証明するものとして明るみに出、検察の起訴事実が根底から覆される。公判では激烈な論争が展開された。(参考文献『日本の裁判史を読む事典』自由国民社)

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 「昭和編年史34年版 Ⅳ」P.426〈8.10 河北〉 は、松川事件公判2審判決破棄・差戻し判決時の地元の反応の記事。

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 昭和36年(1961年)8月8日、仙台公判での差戻し審で被告全員に無罪判決。

 記事は「昭和編年史36年版 IV」P.384〈8.8 朝日新聞〉

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 昭和38年(1963 年)9月12日、最高裁は検察側による再上告を棄却し、被告全員の無罪が確定した。

 記事は「昭和編年史38年版 V」P.116〈9.12 朝日〉

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 多くの文化人が松川事件に関心を示し、中でも作家の広津和郎は雑誌「中央公論」で無罪論を主張、松川事件対策協議会会長となり被告支援運動を展開した。

 記事は「昭和編年史 38年版 V」P.132〈9.13 読売〉

八海事件

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 「昭和編年史34年版 Ⅴ」P.224〈9.23 毎日〉は、八海事件の広島高裁無罪判決記事。

 八海事件は、昭和26年(1951年)1月24日山口県熊毛郡八海で起きた殺人事件。通算7回、17年9ヵ月間に及ぶ裁判で死刑を含む有罪と無罪が対立、最終的には真犯人以外の4人の無罪が確定した。裁判途中で弁護士が冤罪説を説く本を出しこの本を原作として広く世間に無罪を訴える映画『真昼の暗黒』が作られたり、一審裁判長が反撃するなど法廷外の論争も激しかった。昭和43年(1968年)10月の第3次上告審で最高裁が無罪判決。最高裁が下級審の事実認定を覆し無罪判決にしたのはこれが初めて。1950年代には静岡県の幸浦、山口県の二保、熊本県の免田などずさんな捜査・自白重視の弊害による冤罪事件が相次いだ。(参考文献『日本の裁判史を読む事典』自由国民社)

 左下の「昭和編年史34年版 Ⅴ」P.230〈9.23 中国〉は、広島高裁差戻し判決公判時の地元紙の報道。

 右下は「昭和編年史34年版 Ⅴ」分野別目次。犯罪・事件の項目では平事件、松川事件、砂川事件、造船疑獄、八海事件など事件毎に分類。

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